初めて『福井市視聴覚教育研究大会』へ

ミニレオ1号です。どーもです。

福井市映像文化センターさんからご案内メールをいただき、毎年なぜか気がついたら終わっていた『福井市視聴覚教育研究大会』に行ってきました。

といっても時間の関係で、前半の全体会と基調講演、『第8回福井ふるさとCM大賞コンクール』公開審査だけしか参加できなかったのですが。

基調講演の演題は「メディアの利用と著作権法の課題」。常磐大学大学院教授で日本視聴覚教育協会評議員なども務める坂井知志氏が

  • デジタルメディアを教育現場で活用することのメリット
  • 教育現場における著作権法(特に第35条)
  • 著作権法を正しく認識するためのガイドラインと情報源

などについて講演を行ないました。

特に印象に残ったところをピックアップしますと

わたしたちが「大事だ」と思うものをまず、記録することが重要
著作権や肖像権、個人情報などの保護が喧しく指摘される昨今。だからといって「法律があるから撮らない、残さない」という姿勢では、現在の日本の姿を後世に伝えることはできない。まず、わたしたちが「大事だ」と思う事象を無加工の状態で残すことが大切。その上で、現在の法律に沿って編集したコンテンツを流通させるべきではないか。
現在の著作権法は〈学ぶ〉上での制約が多くないか
「学ぶ」という語は、「まねぶ」(注:「真似をする」「そのまま書き写す」の意も含まれる)という古語に由来する。その起源や意味に照らせば、現在の著作権法は〈まねぶ〉ことに対する制約が多いように感じる。
現代の日本の姿を残しているのは、日本ではなくアメリカである
(注:たとえば、日米間の核持ち込み密約文書がそうであるように)あらゆる面で、現代のこの国の姿を残しているのは日本でなくアメリカである。現在、国立公文書館の担当職員は約40人。対して、アメリカ国立公文書記録管理局の担当職員は約2000人。そもそも日本人は、今起きている事象がいずれ〈歴史〉となることを認識していないふしがある。専門家だけでは地域の〈今〉を後世に伝えることはできず、地域のアーキビストの養成が視聴覚の現代的な課題だ。

三つ目については、鉄氏が〈バイブル〉といってやまない『知的生産の技術』(梅棹忠夫著 1969年初版)でも、このようなことが指摘されています。

 日本人には、自分のしとげた仕事の記録を残すという習慣が、あまり身についていないようである。どんな仕事でも、日本人のやったことを、すこししらべてみるとわかるが、たいてい、まことに貧弱な記録しかないものである。《中略》日本人は、記録軽視、成果第一主義で、実質的で、たいへんけっこうなのだが、社会的蓄積がきかないという大欠点がある。やはり、どうしてこうしてこうなった、ということを、かきのこしておいてくれないと、あとのもののためにならない。
 ヨーロッパには、どの国にも、むかしからアルキーフ(文書館)という施設が発達していて、さまざまな記録を、じつにこくめいに保存しているということである。日本では、そのような、記録保存のための公共施設の発達がわるいから、記録がのこっていない、というせいもあるけれど、じっさいは、それ以上に、はじめから保存の対象になるような記録がとってない、というのが真相だろう。
(梅棹忠夫『知的生産の技術』 p.174~175)

40年経っても、事態はまったく改善されていない、ということですね。

坂井ゼミナール
http://www.tokiwa.ac.jp/~tsakai/seminar/